おお 季節よ 鳥よ
無疵な魂など、どこにいよう
――ランボー全詩集 「地獄の季節」(ちくま文庫)より改竄
カンオンに促されるまま口をあけたニコライは、紫外線照射殺菌をしています。それぐらいしか応急手当はできませんが、あさいキズらしく、唾液をはき出すたび、その赤がうすれてきていました。
「ンペッ、ペッ、ペッ」
ジュリとマリが「きたないものを見るように」ではなく、まさに、きたないものから顔をそむけていました。
ニコライの表情からは痛さより、そのマズさによる、不快感が見てとれました。ふきげんそうに、大人しくしているニコライ。トラブルメーカーの彼に「とりあえず、そのまま、大人しくしていてくれ」とソルは、ねがっていました。
ソルはナップサックをあさって、グレープキャンディーをとり出し、ニコライにあげました。味と色味でごまかし、とうめん、やりすごそうというわけです。遭難中(?) の密室に、緊迫感のない、アマイにおいが満ちました。
「くぅー」
マリのお腹が小さくなっても、ソルはしらんぷりを、きめこんでいます。やさしさではなく、この先をみこして、ここでかぎられたナップサックの食糧を、わたすわけにはいかなかったからです。彼はジュリたちを降ろすチャンスを、うかがっていました。まだそのチャンスは、じゅうぶんのこっていると思っていました。今のところ、単独航行が彼の中での既定路線であることに、なんの変わりもありませんでした。
キラキラなにかが、室内で光り出しました。まん中に光があつまると、おなじみのドメスティック・ダックのテーマソングとともに、アヒルのキャラクターがあらわれました。船長のアヒルは、黄色い月桂樹の刺繍の入ったキャプテン帽をかぶり、おしりをフリフリ歩きまわります。
「グワァ、グワァ、バン!」
お宝の地図と白いフキダシがうかび、指示棒でそれを叩きました。フキダシの中のネームで、説明を補足していました。
ピンク色の経路が、ゆかにうかび上がりました。ジュリが数歩たどると、かべの横っちょで、矢印が点滅しだしました。くぼみの中のレバーを回すと、カパッとカバーがはずれます。空洞の中に、銀色の遭難緊急袋がのぞいていました。
「パチパチパチパンパンパン……グワァ、グワァ!」
手と足をたたいて、よろこぶアヒルのドメスト。
さっそく中みをひろげると、さまざまな遭難対策グッズと、食料がはいっていました。
「えーあるなら、さいしょっからいってよぉ。ねぇーもぉぅ」
ジュリがマリに同意をもとめながら、あきれ顔でいいました。カンオンにしては、タイミングにおくれをとったのは、ふだん使われていない船との同期に、手間どったせいかもしれません。
ふくろの中から、カン入りビスケット、シロップづけのフルーツのカンヅメ、切れているサラミソーセージ、ミネラルウオーターなどをえらびました。ブツブツ、ペッペッいいながら、けっきょくニコライも食べていました。
食事といより、おやつが終わったら、こんどはトイレです。さっこん、立ちションになれたソルは「外ですりゃいいじゃん」と思っていましたが、とうぜん口には出しませんでした。
ふたたび、アヒルがあらわれました。ピンクのリボンが頭につき、声音も高くなっています。ジュリとマリを、水色に光った後のドアまで、ていちょうにエスコート。せせらぎの音と鳥のさえずりが、ながれはじめました。
しらぬ間にエアコンが入り、室温調整がはじまっているのに気づきました。心をしずめる効果がある、モーツァルトのピアノソナタの調べも、ささやくくらいの静けさで鳴っていました。
なんだか、ぶぜんとするソル。たしかにベンリ。ベンリはベンリ。もんくのつけようも、ありません。どう考えても、だれもわるくは、ありませんでした。
小さな合流点をいくつか挿しはさみ、つぎの大きな合流予定点が、ちかづいてきました。とお目から見る橋の欄干は、今までになく、やけにハデに見えます。あの特徴的な、七色のカラフルな原色は、見おぼえがありました。あれはソルが、はじめてホルスと出会った日の、帰り道にわたったフェンリル大橋でした。
独特なお香のニオイと、けたたましい鳴りもの。葬列みたいな黒装束。その異様なパフォーマと、うさんくさい演説。狂集団の異様さにとりまかれ、すみっこを、かくれるよう足早にとおりすぎた、あの橋でした。
川の合流点は、色がはっきり分かれ、ツートン・カラーになっていました。透明度がちがうのか、それとも、水の成分が微妙にちがうのでしょうか。
橋にちかづいてゆくと、ゴウゴウと、うなる水の音しかしなくなりました。とぎれとぎれに、交差点の明るい童謡が、まじって聞こえました。
昼夜を分かたず、ずっと点きっぱなしのキリンの照明灯が、お日さまの下こうこうと照っています。船は色の変わり目を難なくこえ、すべるように、すすんでいきました。
スーパー堤防ごしに低い建築物は見えませんが、生活臭がだいぶ薄れてきたのは分かりました。高層のオフィスや、複合商業施設などもまばらになり、潮のかおりが、いちだんと濃厚さをましています。もはや、うたがいようもなく、海がちかいのです。ソルは、あせりはじめました。
堤防も途切れがちになり、すでに生活圏でも商業圏でもなくなっているのが、容易にわかりました。そうでなくても、もはや建物のサイズの次元が、完全にちがっていました。
鉄くずドロボウがヨダレをたらしそうな、累々と組み上げられた、むき出しの鉄骨。マッチ棒でも組むかのように、おしげもなく編みこんだ、工場やコンビナートの棟々。鉄の要塞都市が、白い帽子をかぶり、プロパンのニオイを、ただよわせていました。
ソルの思惑とはおかまいなしに、ずんずん船は、すすんでいます。迷子になりそうなほど、だだっぴろい草ぼうぼうの更地。ピカピカの、プレートのない新車が整列する、アスファルトの駐車場。ますます濃くなる潮のかおり。船は海の手前にいました。
赤白だんだらの、トロイの木馬みたいな大きなクレーンが、何機も見えてきました。気づけば、目の前を妨げるものは、もうなにもありません。
「なんだ、きちゃってるじゃん」
ニコライ。
「ねーこれ海だよね、ほんものだよね?」
マリ。
「うん、とうとう来ちゃったね」
ジュリ。
「……」
ソルはデッキに出ると、海風に少しよろめきました。
はじめての海。彼にとって、はじめての海でした。
開け放たれた青。その広大な質量をたたえる虚無。カラッポをみたす大気の嵩と、視界いっぱいの水嵩。夜までつづく空と、かくれた深度。たった二色の、青と白の色調が、むげんに戯れています。
ややもすれば、奥行きを失いかねない肉眼に、すべてがおさまり切っているという矛盾。巨大さからくる恐怖心より、不全感しかないソルは、なんだか、だまされているような気がしました。それが彼の、はじめての海の印象でした。
ソルはため息をつきました。海風が正面から吹きつけます。彼は、あきらめました。このまま四人でいくしかありません。マリをのこして、三人も外に出てきました。
ギラギラ銀色に光る、広大な三角波のパッチワークが、どこまでも、どこまでも広がっています。
チャプンと、ちっちゃなトビウオがはねました。
「うおーい!」
ニコライが手をふります。漁船ではたらくおじさんも、手をふりかえします。ソルもヤケになって手をふりました。
「おーい!」
ソルは思い立って船橋にもどり、箱をかかえて出てきました。落ちないよう足ではさみながら、黒い物体をとり出しました。
「なに、それ?」
ジュリがたずね、ニコライが注視します。
「鳥」
「鳥だよ。オレの鳥」
「鳥って、これが?」
「すっげー、ブサイク」
ソルはクランクをクルクル回し、ゴムのためをつくっています。エリゼで試験飛行ができなかったので、ほぼ、ぶっつけ本番です。
「バサバサッ」
手をはなし、すぐ止めました。確認完了。ちゃんと、羽は動きました。考えをめぐらせ、立ちつくすソル。「えっと、他になんかあったけ?」なーんか、わすれているような気がします。だんだん、心細くなってきました。
あーもういい! メンドくさ。あったらあったで、かまうもんか。そん時ゃ、そん時だ。
「とばすぞ!」
「ちょっとぉ、ここで?」
「アホか、海におちるぞ」
ソルは自分に、いいます。
「いいから、とばすぞ!」
二三歩助走をつけ、むかい風にむかって、なげました。
「あ、バカ」
「なにやってんの!」
二段三段と空気の段を跳びこえ、風にあおられながら、大きく旋回する黒い鳥。横っ腹に風をうけ、ヨタヨタななめにとんでいます。
船と並走するように、カモメが数羽とんでいました。生あるものは風にのり、ムダに羽ばたかず、ホバリングでもしているかのよう。その中の一ぴきが好奇心にかられ、黒い鳥にちかよっていきます。
ほんのちょっと伴走したたけで、すぐに興味もしくは敵愾心をうしない、さっていってしまいました。
ちょうど一周しかかったところで、強い風にあおられました。不安定な姿勢でモロに風をうけ、失速。放物線をえがき落ちました。
「ポチャンッ」
「あ~あ」
二人がいいました。
「あ~あ」
わらって、ソルもいいました。
まあいいや、とにかくこれでおわった。そう思うと、彼はきゅうに、みがるになった気がしました。