単純計算で引きかえすには、きた時とおなじくらいの時間が、かかるはずでした。だとしたら、やく一日半といった、ところでしょうか。それくらいのガマンは、ひつように思われました。
なんの目やすもない、茫洋とした海にとりかこまれ、池のようなおだやかな波間をゆく船。太陽が高いときは、どちらにむかって進んでいるのかも、よくわからず、じつは止まったままかも? と思うほど。巨人の目で見れば、白いヨットは模型みたい。船首の喫水線から船尾まで、右肩上がりのまっぷたつに切りとって、カポッと青い波模様の台にはめ込んだ、帆のかけた貧相なスケールモデル。午後の幽霊も眠りこけそうな昼下がり。時間をうしなった永遠の今が、局地的海上にとどまっていました。
「コッコッコッ」つつくように、ときおり小さく咳払いするモーター。みんなを我にかえそうと、ノックします。あらためて空気をすいこんで、潮のニオイを嗅がなければ、海にいるのを忘れてしまいそう。さんざん親しんだ、船腹をうつ波音には、もうなれっこ。じぶんの心音みたいに、脳がやすやすカットします。かえって静寂がならす耳鳴りをうち消し、おだやかな緩衝材として、外界を遮断するのに役立っています。もはや人のたてる音しか、子らの耳にはとどきません。
いつしかソルたちは、ふだんと変わらない時を、すごすようになっていました。海のまっただ中にありながら、エリゼにいるような、盤石な地面に立つ建物の中にいるような、そんな気ぶんに、どっぷりと浸かっていました。
「う”あ”あ”あ”あ”あ”あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ニコライの絶叫にドキッとしましたが、なれっこなので、みんなでスルーします。
「あ”あ”あ”あ”あ”あぁぁぁぁ××******×××××***×××***××あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”××***×***ぁぁぁぁぁ――
無意味なコトバのられつに、彼の個性というべつの不安要素が頭をもたげ、みんなの心に影がさしました。
「ヒマなんだぁよおぉぉぉぉぉぉおおおぅぅぅうううう!」
意味のとおったコトバに転じると、ホッとして、みんなはちょっとムッとします。
「きゅうに大きな声ださないでよ! そんなことは、みんなわかってんの」
怒ってジュリがいいました。
「だって。」
ホッとしたマリが、ジュリにかぶせます。
「みんな、そうなんだよ。ニコライだけじゃないんだから」
と、あいづちをうちました。
「あ”あ”あ”あ”あ”あああああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……」
いちばんホッとしているのは、だまっていたソルでした。ふうー、セーフ。あぶない、あぶない。冷汗が出ました。
「ヒマだ、ヒマだ、ヒマだ、ヒマだ、ヒマだぁぁああぁぁぁよぉおおぉぉぉぉ――
「だあー、ウッサイ! ウッサイ! ちよっとぉ、ソル! あんたもなんか、いいなさいよ。おんなじ男子でしょ!」
おなじね……。ないしん、つぶやくソル。
「さっきやった、アメでもなめてろよ」
「もうない」
ポツリというニコライ。
「?」
なんのことか分からないソル。
「もうない!」
大声をだすニコライ。
「しるか!」
つられて大声をだすソル。
「もお、しずかにして! マリのおなかにわるいでしょ、赤ちゃんになんかあったら、どうすんの!」
ジュリが一ばん大きい声で、どなっていました。
だから、そんなことぐらいで氏なねえよ。まいど思うソル。
「じゃあ、みんなのカンオンで、なんかやる?」
とつぜん、とっぴょうしもなく、ソルがいいました。
「???」
あのソルからの、いがいな提案に、みんなはちょっとビックリします。
「どうせ、たいしたこと、できない」
困惑ぎみのジュリが、口数少なく無表情で答えしました。
「いいんだよ。たいしたこと、できなくて」
「トランプゲームとかぐらいしか、できないよ」
フォロ―するマリ。
「じゃ、それで」
即決するソル。
「はぁ?」
険のある顔をするジュリ。
「七ならべなら、わたしとくい!」
きゅうに、はしゃぐマリ。
「なんでもいいから、やろう、やろう!」
ゆかにりょう手をつき、パンパン足をたたくニコライ。
「……」
むごんのジュリ。
「こんな原始的なゲームつまらない」を連呼しながら、それなりのめりこんでいるジュリと、まったくルールを、おぼえようとしないニコライ。出だしのカード運のよいマリと、絶不調のソル。なんのかんのと言いながら、けっきょくトランゲーム大会は、たけなわになっていました。
船の照明が点りました。
ひきつづき照らすカンオンの光量も、うっすら上がりました。まだ夕方には早すぎますが、みんな気にせず、トランプゲームをつづけていました。かすかに、なにかが鼻につきますが、ニコライをのぞいて、みんなだまっていました。
水で溶いた漆黒を、うすく塗り重ねるように、じわじわ、暗くなってきました。どうゆうわけか、室内の照明灯が、おとろえてきているようです。エリゼの子らには、故障という思いつきが、すぐにはうかびません。カンオンが一足とびに、明るさの段階を上げてゆきますが、なぜかそれが、まわりに反映されませんでした。
「ねえ、なんか、くらくなってない?」
ガマンできなくなったのか、マリが、さいしょに口に出しました。
「それになんか、ちょっと……」
口ごもりました。
「……」
あたりを、うかがうジュリ。
「なんか、クッセー」
気がついたことを、すぐに口にするニコライ。
ソルも気がついてはいましたが、対処のしようがなく、いっても不安がらせるだけなので、だまっていました。でも、とうのマリがいいだしたからには、もうしかたがありません。おおっぴらに窓の外を見やります。ふしぎなことに、室内の中と外とで、さほど暗さがかわらないのに、ソルは気づきました。
「ちょっと、見てくる」
立ち上がって、ソルはドアへむかいました。
ほほをなでるような、ぬるい微風が吹いています。はらりと前髪がもち上がり、実験室のような異臭を嗅ぎ分けられました。
金属のように光る雲をすかして、太陽がまだ見えています。つぎつぎ黒い雲が被さってきて、消えたり現われたりしています。空気がしっとりと水分をふくみ、にぎったり閉じたりすると、手がベタつく感じがします。
「なんか、やばくない?」
そうつぶやくと、彼はまわれ右しました。
もどってしばらく、彼はだまったままでいました。
「……で?」
ジュリがたずねます。
「そらが暗い」
口かず少なく、省エネのソル。
「で?」
ニコライが、かさねて聞きます。
「風が出てきた」
といって、マリのほうをチラッと見ました。
「……」
マリは、だまっています。
しったからって、子らではどうにもなりませんが、制限つきのオンラインの局地情報と、天気予想を、みんなで聞ききました。
けっかは、すべて快晴をあらわす、笑顔のおひさまマーク。カンオンを空気のように当然視している子らですが、モヤモヤは解消されません。ますます不安がつのりました。子らにしてみれば、嵐がくるのが恐ろしいのか、それとも、カンオンの予想が外れることの方がショックなのか、よくわかりませんでした。どちらがどちらともいえず、たぶん、りょうほうでした。憶測が不安をかきたて、子らの胸中を、マーブル模様にうずまいています。ただ一つだけ言えることは、けっきょくさいごは、カンオンにたよるしかない、ということでした。
だれもが嵐とか、台風とかいったコトバはつかわず、それをさけていました。いったら、ほんとうになるような気がして、いえなかったのです。
「で、けっきょく台風くんの?」
あっさり、ニコライがいいました。
「こなきゃ、いいけどね」
へいぜんをよそおって、ソルがいいました。
「くるわけないでしょ。あんたたちの予想なんか、いみないから(笑)」
「だれも予想なんか、してませんけど?」
「あ、そう」
「ダイジョ―ブ、ダイジョ―ブ。台風なんかこないから」
マリをだきよせながら、ジュリはいいました。
フツフツ海面が、白くわき立ってきました。雨がはげしくうったかと思えば、ぽっかり空いた穴から、のんびりとした青空がのぞきます。オーロラのような襞をほどこした黄金の柱が海に落ち、またたく間に、しぼんで暗くなりました。
また雨が、はげしくソルの顔面をうちつけます。雨つぶが痛いことに、おどろいて、彼は船内にかけ込みました。
「ぬれたぬれた。ハズレたね、カンオン」
ニヤッとして見せましたが、面の皮一まいで、わらっているだけでした。
「で、それで、どうすんの?」
「どうするも、こうするも……」
「ひゅぅぅぅううううう、ごぉぉぉぉおおおおおおお! ざっぶん、ざばぁあ、ざぁぁあああああ!」
窓にへばりつき、こうふんしているニコライ。なんだかちょっと、いやかなり、うれしそう。
「あんま、こうふんすんなよ、ぶったおれるぞ」
なんかハラのたったソルが、いいました。
ニコライがむっとして見かえし、女の子たちが、ビクッとなりました。彼がニコライの個性にふれるポリティカル・コレクトネスをおかしたのと、それによっておきた、暴力の予兆に怯えたのでした。
すこしくらい、いってもいい権利(?)が、オレにはあるのにな。と彼は思っていました。
「ちょっと、やめてよね、マリがこわがってるじゃない」
「またマリかよ。ちょっとは、じぶんのせいにしたら?」
「どういうこと?」
「なんでもないよ」
ニコライは窓にかじりつき、ジュリは怪訝な目つきでソルを見かえし、ソルはひらきなおったように、だまったままでいます。マリは固まっていました。今なにかいったら、わるいことがおこりそうで、じぶんの足もとからすべてが崩れ落ちないよう、ただ祈るよう、だまっていました。コトダマとその影響結果からの責任回避を、自らしゃべらないことで、享受しようとしていました。
きょくげんまで、船の照明が落ちています。
「くらすぎんだろ、これ!」
さけぶニコライ。
「おかしいよ。ぜったい、おかしいよ! なんでカンオンまで、明るくなんないの?」
なっとくいかない、ジュリ。
ソルは、だまっていました。ビビリをかくすためと、いくら憶測をならべたてても、無意味だからです。彼は暗くなったカンオンを弄ったり、頭の中で祈るよう、具体的な根拠を探しもとめていましたが、けっきょくムダでした。
性懲りもなく、また彼は、光量の落ちたカンオンを弄りはじめました。いっこくも早く「うごく」理由がほしかったのです。しかし、不安を解消するための理由となる情報が、まったくなかったのでした。
「もおー、なにやってんのよ、ソル!」
「ぽぽぽぽぽーん」
「あーもう、やめた。しるかボケ!」
「つよいゆれに、ご注意ください。つよいゆれに、ご注意ください」
「波浪警報が発令……
風と船体に波があたる音も、はげしさをましています。
「え、なに? なんていったの?」
「ぽぽぽぽぽーん」
「な・ん・で・も・な・い!」
「どなんないでよ!」
「つよいゆれに、ご注意ください。つよいゆれに……
「え、きこえない」
「な・ん・で・も・な・い!」
「ガンッ!」
ブッツリ線が切れ、エレベーターが落下したような衝撃、薄暗闇に星が散りました。
「いってーな」
「マリ、だいじょうぶだった?」
「うん、わたしは、ぜんぜんへーき」
暗さや騒音より、とうめん問題にすべきは、物理的な「ゆれ」であることに気づきました。ふらつく頭でソルは、船の強度を聞き出そうとします。
船長のアヒルのドメストは、出てきませんでした。画像はなく、平坦な男性の音声と、白い文字だけでした。
まず「これは外洋艇ではありません。沿岸用の船です。外洋では、残念ながら保障外です」といわれました。
船体の積層がうすいので船体強度は低く、全天候型のロングクルーズには不向きです。とのこと。あとはスタビリティー消失角度が120度とか、なんとか、かんとか、チンプンカンプン……。
「ふむ。……つまり、どういうこと?」
ニコライがたずねました。
「オレしーらね、だってよ。ようは運だってさ」
「そんなの無責任!」
「まあ、あれだ。さいしょっから、運がよかったんだか、わるかったんだか。だいたいあれだ、船がうごくわきゃ、なかったんだな、そもそも。ほんとはあれだ、中に入れるワケなかったんだな、そもそも」
「いやー、まいったね。運がよかったのが、運のつき!」
自嘲気味に、わらってソルがいいました。
「どーすんのよ!」
「寝るか、祈るかしてれば?」
そういって、ソルは、せせらわらいました。
「ダメだ。おかしくなってる、この人」
ジュリが、あきれていいました。
「もういい」
はきすてるように言うと、暗がりの中、マリの手をとって船のすみっこにいき、だきかかえあうよう、うずくまりました。
「つまんねー」
ふてくされるニコライ。ベンチシートにもどり、足をかかえ、三人ぶんをつかって横になりました。
ソルはリセットされたみたいな、じぶんの実存が、債務超過におちいった気ぶんになっていました。
うつうつとしていましたが、ふと気がつき、ソルはさけびます。
「ダメだみんな、寝ちゃだめだ!」
「ちゃんと席について、シートベルトをしろ!」