ギャンブル
世界は出産する。そして女と同じように世界は美しくない。
――「無神学大全3 ニーチェについて」第三部 日記 G・バタイユ(現代思潮新社)
私は自由でありたい。狂気と紛うまでも自由でありたい。死産児のように自由でありたい。
――「生誕の災厄」E・M・シオラン(紀伊國屋書店)
今さっきまで夢を見ていたのは明らかなのに、もう思い出せない。はげしい歯ぎしりグセのあるソルは、いつにもまして、ガッチリ固まったコブ結びの頭で、目が覚めました。
孫悟空の頭をしめつけるワッカの、緊箍児みたいな緊張型頭痛がしていました。こいつがほぐれるのに、四時間はかかるでしょう。今回はとくに、ひどいみたい。
体がだるく、ほてり、ぼーっとしていました。夢を見るほどの、あさい眠りだったのに、底なし沼から引き上げられたように、ひどく消耗していました。
ゴロンと寝返りをうつと、服がジワッとなり、そくざに彼は現実に立たされました。夢から夢へ転げ落ち、目ざめてなお、また悪夢。夢と知ってもまだ覚めやらない、永遠にアバターのままの邯鄲のようでした。
「はたしてこの現実を、じぶんが受入れる義務があるのか?」彼は半信半疑で、なんだか他人ごとみたいでいます。それが愚問であろうが、なかろうが、実感がもてないのでした。 目の前の現実が、ただ「ある」ということが、彼にとって、これほど疎ましいとは。事実は目の前にありました。それは、石コロのように転がっているのでした。
「はぁー」
タメ息。
どーするよ……
マリの方をチラ見。
「はぁー」
また、タメ息。
「ふぁー」
生アクビ。
いいかげんタメ息も、おっくうになってきました。
じいーっと、壁のパターンを見つめています。
けっきょくさ……、カンオンなんだろ?
ソルは、あきらめたように、重い腰を上げました。
カンオンは赤い表示で固まったまま。点滅もアラート音もなく、冷えきっていました。こくこくと経過時間が、0.00コンマ単位で加算されていきます。今は107分経過したところ。いってる間に108分に。
脈、心肺、脳波と、停止時間が、びみょうにズレていましたが、止まっていることに変わりありません。胎児は死んでいました。
それに触れたことで、カンオンは次のステージへうつりました。といったところで、べつに急ぐことはありません。最優先事項だった赤んぼうの救命措置は、もう必要ないのです。フォントは通常の白にもどり、数字をふった応急手当の選択文が、横の箇条書きでならんでいました。
一部、赤く大きな文字で「あくまでも、じんそくな応急処置がおこなえない場合にかぎり」とあります。
「ジンソクって?」
「ものごとの進行がきわめて速いさま。すみやか。」
「じゃなくて。どんくらいまで、まってていいの?」
「泣かないで」
「?」
聞きなおします。
「だから、その王宮ナントカって、いつ、どの、タイミングで、やったらいいの?」
しばしの間。
「最終的な判断は、お客様それぞれの現状におうじ臨機応変に、あくまで自己責任でおねがいします」
ザックリかえされました。
「しるかよ」
脊髄反射で推薦事項をえらびました。
ブワッと長文がおどり出るのと同時、音声解説がはじまりました。おそろしくデリケートかつセンシティブ、もってまわって婉曲な表現と、科学的専門用語のオンパレード。子でなくても理解はむずかしいでしょう。とうぜん、さいごまで読む気も、聞く気もおきません。スキップできずスルーしながら、ひたすら待ちます。
あんのじょう、末尾に要約が出ました。一番上のみじかい文を、音声クリックします。白い抽象的な姿の医師があらわれ、一礼。ソルもペコリとおじぎしました。
もったいつけたような、たどたどしい儀礼的なうごきで、ダミー被験者の足下に立ち、かかんで作業をはじめました。ぜんたいとおして、終了まで47分ほどかかりました。
「以上の応急手当には、一般市民が法律で禁じられた、救急隊員や医師による、応急処置や医療行為が含まれています。適切な時間内での医療復帰がみこめない場合にかぎり、慎重におこなって下さい。またこの動画につきましては、わが社独自のサービスであり、なんら公的責任を負うものではありません。あくまで参考程度にとどめ、お客様各位の判断にもとづき、あくまで自己責任でおねがいします」
再三再四、ねんをおすような注釈で閉めると、また頭にもどって、リプレイがはじまりました。
「てきせつな時間とは?」
ホログラムが中断。
「最終的な判断は、お客様各自その場の――」
「おわれ!」
しつこく終了をたずねられ、おわらせました。
経過時間は149分をすぎていました。
しばらくの間、彼は考えあぐねていました。じっさいは、みじかい時間でしたが、えんえん、考えつづけた気がしました。
なにを、どんなに考えようとも、答えなんて出るワケがありません。正解があったとしても、今のかぎられたオフラインの情報と、子の能力では、それへたどりつける確率は、ほぼ0でした。
カンタンに無料で手に入る情報は、一般的なものばかりでした。彼がほしいのは推理小説みたいな氏んだ情報ではなく、ハードボイルドなやつ、今のこの自分だけに通用する、生きた情報なのです。
ところで正解って、なんでしょう? それは未来にまちうける、天災たらしめたい災難からの、社会的責任回避をさします。つまるところそれは、火の粉よけの保険にすぎませんでした。
――カンオンが判断できるのは、より細分化された一般的個別ケースだけです。それは正解率の高さによって支えられた、哲学(価値)でしかありません。しかし、大づかみな行動指針の決定には、その人の「のぞましさ」が求められます。たとえどんな不利が生じても後悔しない、その人の基底(物語、神話、自己肯定)にささえられた、好みによる独断が必要です。いわゆる運命愛みたいなものが。
ほんらい未来をになうべきは、未練たらしい不敗の意識ではなく、敗北を友とする意志のはずです。
ここから出発して、船が一直線に陸に帰れたとしても、最短でも、まる一日以上はかかってしまうだろうと、ソルは考えます。はたしてこのまま、なにもしないでいいのか? 煩悶が止みません。
いいかぁ、このままで……。
マリの方をチラ見。
「死んじゃってるしな」
ぽつりと、禁句を口にしました。
もう、おわってるし。
赤んぼうにかんしては、今さらなにをやっても、もう後のまつりでした。
うーん……。
まだ、もんだいは、のこっているように思われました。
まあいいか、このままで……
魚の目で、マリの方を見るソル。
「ゴホ、ゴホッ、ゴホッ」
むせました。おきる気配もないのに大きめに。
「はぁーあ!」
「どっこいしょっ!」
わざと声に出して立ち上がりました。とっくに決まっていたことを実行するために。
彼は、マリの間近にしゃがみました。りょう手をヒザにかけます。がばっとスカートを開けると、股がこんもり、ふくれていました。ベージュのボクサーパンツみたいなのが、ぬれて濃くなり、ぴっちり体にはりついています。
生ぐさい魚のような臭いが、鼻につきました。ほんとうは前から気づいていましたが、気づかないフリをしていました。ため池の臭いとまじっていたのと、これいじょう悪いことを、しりたくなかったからでした。しかし、その臭いの発生源が、今やはっきりしました。
「ゴホン!」
あわてて口もとの手を、とおざけました。
ヒザで立ったり、すわったり、せわしなくポジションを変えています。足を閉じないよう片ヒザでブロックして、ぴちぴちのパンツを、ちょっとずつ、ズラシしていきました。
のっぺりとした赤茶色の股から、なにかが出かかっていました。手じゅんなんて飛んでしまい、手がつけられません。とりあえず、レバー状のモノと白いカタマリがついたパンツを、わきにおきました。
やらなきゃ、よかった……
さっそく後悔。
後もどりしようかと思いましたが、ギリギリのところで、ふみとどまりました。
なやんだすえ、彼は覚悟をきめます。
どっちにころんだって、おなじだろ?
ほんとうは、(責任が)おなじじゃないことくらい、子の彼だって知っていましたが……。
まるく出かかった、シワのよった頭部らしきものに手をあてると、ぬぷっと、熟したモモの果肉みたいに、指先がうまりました。そうとうキモチわるいはずですが、彼は手を引っこめようとしません。ぐにぐに反発をうけつつ、押しながら引き出してこうとします。ピュッと、にごった茶色い液体が出て、臭いがガマンできないほど濃くなりました。
引き出されたモノは人とは思えないほど小さく、全身の間接が溶け、まさに水のようにグニャグニャしていました。赤い浸軟胎児は彼の手の中でグズグズと崩れ、無くなってしまいそうでした。後から遊星からのXみたいな、赤黒い胎盤も出てきました。
ソルは事前に画像検索してから、ことに当たっていました。なるべく閲覧注意なグロイものを見て、耐性をつけていたのです。「そんなことは気休めにすぎない」「現実と二次をゴッチャにするな」と怒り出す人がいるかもしれませんが、それがあるていど役に立つことも否めません。かなしいけどこれ現実なのよね。
倫理の喧しいこの時代にあって、カンオンをもつ情強な上級国民な子らの方が、じつはこの手のグロ画像になれっこでした。これだから、世の中一筋縄にはいきません。二枚舌のレヴィナス(サブラー・シャティーラ事件、イスラエル国家を支持)じゃありませんが、現実には予測できない、さまざまな顔があるのです。
立てヒザついて作業していたのが、いつの間にかペッタリすわりこみ、おしりがグッショリぬれていました。すでに、カンオンが照射殺菌をはじめています。彼はナップサックを引っくり返すと、レジ袋をひろい中身をすてました。
広げた口をゆかにピッタリあて、下からすべりこますようソロソロと、赤いカタマリにちかづけていきます。うまくいかないので、かた手にペットボトルをもち、先っぼで押しこもうとします。入りかけを持ち上げようとして、ヌルッと落としました。ベチャッと前よりくずれたそれを、生鮮食品のようにレジ袋に入れ、のこった胎盤の残滓も、ぜんぶかき集めました。ヌルつく手で、ハミ出さないようビニールの口をきつく閉じ、それをシルバーの遭難袋に入れ、さらにそれをナップサックに入れました。
いちおう、これでおわり。なんとか、一ばんの難関はこえました。一息つく間もなく立ち上がると、グッショリまるまったベージュの下着をひろい上げ、彼は外に出ました。
はっとしました。海に手がとどきません。船を半周すると、すぐ船尾にハシゴがあるのを見つけました。
「チッ、あったのかよ、はじめからいえよ」
ハシゴをおり、かた手でのり出しジャブジャブあらいます。上がって、ギューとしぼりました。ソルは、のんきに鼻歌まじり。見上げれば、決壊してきそうな満天の星灯り。でも、もうこわくはありません。船橋にかえってキョロキョロして、しょうがないので舵輪にかけました。
ハンドタオルでマリの下半身をふき、あらっては、またふきました。かわいたティッシュでふいてから、べつのタオルをマリのおしりの下にしき、スカートの足を閉じました。
先ほどのしぼったタオルで、ゆかをぞうきんがけします。なんども海を往復して、けっきょくこっちの方が、時間がかかってしまいました。
「ピコピコピコ、ピコピコピコ」
一段落したのもつかの間、舵輪柱についたモニターとカンオンが 、どうじに鳴り出しました。大きいスクリーンがあらわれ、なにかが映し出されようとしています。
ぼやんと、ハッキリしない島影らしきものが、黒くうかんで見えました。ぱっと、昼の映像に切りかわります。紺碧の海に、ぽっかり、緑に浮かんだ小島が映りました。ななめに視点が下ろされ、ぐんと海にちかづくと、水銀のように細かく震える光が、画面いっぱいに輝きました。異様な解像度の下に「スソ・ガウラー・アイランド」と、白く表記されました。
「……なんだよ」
「今おわったばっかじゃん!」
かんぜんに、よみまちがい。ウラをかかれたと、彼はハラを立てます。かるいクツで舵輪柱にケリを入れ、そのままくずれ落ち、ゆかで悶えました。
たしかソルは帰るよう、命令したはずでした。これは人命救助のための、カンオン独自の判断でしょうか。設定したおぼえはありませんが、たんに、目的地に着いたのかもしれません。それとも行きか帰りの、その間をショートカットしただけなのかも。
5Kで見る島は、鬱蒼と緑に燃え立っていました。カメラが港までちかよると、濃緑の壁に白いスジが浮立ち、滝は湾のすぐ手前に落ちていました。いっきに上昇するドローン。ゆっくり時間をかけ、小島の外縁をまわり出しました。
映像のとちゅうで外へ出ました。星と月明かりのかなた水平線に、やっと判別できる黒いデッパリが見えました。とにかく、島に着いたようです。これもまた現実でした。あらたにつけ加えられた、一片の所与(他からあたえられたこと、判断材料)でした。
「ポーン、ポーン」
「ポーン、ポーン」
ほとんど忘れかけたころ、カンオンがチカチカ光り、チャイムがなり出しました。「コビッツガワ・ポートに到着しました」と、文字と音声でしらせました。
それからさらに待たされ、ようやく船は港にすべりこみました。
おそるおそるドアを開け、顔だけ出して、あたりをうかがいます。だれもいないのを確認してから、デッキにでました。
まず、ニオイがちがっていました。潮くささがうすれ、植物のせいなのか、うっすらあまいニオイがします。夜中だからでしょうか、港内にも、そのまわりにも、明かりが見あたらず、あたりはしんとしていました。
ソルは船をとびおり、着地します。ジーンとなって、固い地面を感じました。ひさしぶりの地面。コンクリートの感触に、愛着をおぼえました。まだ体はゆれていますが、やっと一息つけた心地がしました。
カンオンが、足下と前方を照らしていました。港外にあるはずの町や、山というより丘からは、一点の光もとどいて来ていません。空にはあふれんばかりの星屑と、肌影の見える月。消えのこった小さなはぐれ雲がうかんでいます。湿度の少ない、さわやかな夜でした。
すぐに船にもどれる、手ぢかな港内をブラつきます。第一堤防の壁をこえ、船が見えなくなりました。波の音だけが聞こえ、車の音はまだしません。壁のない大屋根をくぐりぬけると、なぜか一カ所だけ、大きいサイズの明かりの灯った、細い電柱がありました。だれにも会わずというか、会えず船にもどりました。
「人いないのかよ?」
カンオンに、たずねました。
一年の内、数日間から一週間ほどの自然保護観察期間をのぞき、島は常時無人となります。と出ました。
「ふ~ん……。」
ほんの一時、彼はデッキに寝ころがり、無気力で星をながめていました。
やれやれと、おき上がると、またちらかったものを、せっせっとかたづけ始めました。
やっと終わりました。これで、ぜんぶです。ぐるっと船内を見まわし、わすれものはないかチェックしています。食糧も水も、たいしてのこっていないので、そのままにしておきます。はなからガランとしていましたが、すっきりしました。
ナップサックを背負い、あらためてもう一度ながめました。もはや大事なものは、なにもありませんが。
ソルはカンオンに、むき直りました。
「このまま、まっすぐ、クラランへ」
「このまま、まっすぐ、クラランへ」
「どこにも、よるなよ」
「どこにも、よるなよ」
「いけ!」
「カッツン」
かわいた音が、ひびきました。
「シュルシュルシュルシュシュル……」
モーターが回りはじめます。船が振動しはじめると、カラカラカラかわいた音がなり、他のカンオンが転がり出ました。一つはベンチシートの影から、もう一つは掃除中にも気づかなかった、ゆかのミゾのレール上を、すべっておどっていました。
ふと思いました。もとはだれのか分かりませんが、今じぶんについているこのカンオン、他の三つ分のエネルギーをたくされた、一つなのでは? と。それを調べようとして、やめました。だいじなエネルギーを、ムダにできませんからね。
ソルは、いそいで船からとびおりました。船腹のまわりには、白いアブクがわき立っています。あたりに熱をもったパソコンのようなニオイがただよい、ゴオンゴオンゴオン……と、洗濯機の脱水音がひびいていました。
船はゆっくりコンクリートの岸をはなれました。港内をモタモタして外へ出ると、じょじょにスピードを上げてゆきます。見おくるソルをおきざりにして、帆のないヨットは黒い海に白い航跡をのこし、小さくなって、やがて見えなくなりました。
「なんだって、やってみなくちゃ分からないのさ」
ぼそっと、一人ごとをいいました。
(他サイトでも投稿しています。)
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