どうなってんだよ、まったく!
外に出られねーじゃねーか、クソ!
しょせんはまだ子の彼は、大人の意向を無視してまで、一人っきりでうごけませんでした。
なんでこう、いちいち、あいつはタイミングよく出てくんだ? カンオンもないのに!
ん? あんのか? いやないよな。
なんか、べつの機械でも、あんのかよ?
……かもな。
でもこっちには、カンオンあるんだし。
イヤ、あんだぞ!
こっちの方が有利に、きまってんじゃねーか! まったく!
なんとかしなくちゃ、なんとか。
なんか、いい手はないのかよ、いい手は!
気ばかりあせって、なにも思いうかびませんでした。じぶんに利があると思っているのが、そもそもまちがいなのを、彼は気づいていません。それくらいカンオンの存在が、クララン上級市民にとって空気なのは、たしかなことでした。
――ソルは子であるためか、彼どくじの個性(境界線上の境界線)のためか、それが大人でなくても、だれかのいったことを、そのまま信じすぎました。彼は気をぬくと、すぐにわすれてしまうのです。「人はウソをつく、それも他者よりも、自分に対して」ということを。その対象に対する刃を鈍らせ、おたがい慣れ合うのが、社会というものの前提です。彼は日常のレベルにおいて、それを、わすれがちでした。
その脳の高次機能、もしくは余剰(ハンドルの遊び)、あからさまにいえば自他欺瞞は、ほんらい社会への活路を見出す働きであり、自然の恩寵とみなされます。ルソーを恥入りさせたとされるそれは、成長と一般によばれますが、厳密にはちがいます。それは経験によって後天的に獲得可能な能力ではなく、たんに先天的に他(環境)から与えられた所与、身体条件にすぎません。健康という名の平凡(閾値)なのです。
彼はサイコパスや境界例、境界性パーソナリティ障害に、あこがれているフシさえありました。というか、あこがれていました。むろん、それらの醜さを目の当たりにすれば、ゲンナリして、にげ出すだろうけど。
いっこうに形は見えて来ませんが、彼が望み求めるものは、それらとは、まったくちがうもののはずでした。まだまだ彼の「わがままへの道」は、とおいようでした。
長時間にわたる寝たフリなんて、幼児共有のお昼寝いらいでした。
まいったなー、朝までこれかよ……。充電したことだし、あそびでつかっても、いいっか?
彼は横になった姿勢で、カンオンを弄りはじめました。
ふと思い立ち、ローカルエリア内で、ヒトの生体情報をしらべます。二次元マップをクローズアップしていくと、行内のおくに
個別認識のない光点がありました。さらにアップして見ていると、びみょうに、うごいているのが分かります。まだおじさんは、おきているようでした。
う~ん……。といったきり、パタッとあおむけにたおれ、彼はゲームをはじめました。
ゲームの進行に欲を出してしまい、やっと見切りをつけ、サーブしてやめました。すでに、けっこうな時間がたっていました。彼は思い出したように、あわてて、おじさんをチェックします。
いません。少なくとも行内には。数分前、数十分前の映像が、うすれつつ重なっていき、そのうち一枚の画が、うかび上がってきました。
いきつもどりつ、せまいスペースをなんども行き交う、みだれた光の線。ハツカネズミみたいに、グルグルなぞって、光だまりになったところから、一本の細い線が外へと伸びています。たどってゆくと、駐車場でハレーションをおこしたように、白く爆発していました。
道に出ると、すぐに交差点にぶつかり、左におれたところで、熱跡は途切れていました。その先の方角には、数時間前に立ちよった北サツマ商店街があります。
「なにしに出かけたんだ? チクリにでも行ったか?」
子の発想ですが、あながちマチガイとも、いえません。
「――今だ!」
ナップサックを引っつかみ、ソルは外にとび出ました。
駐車場のジムニーは、なくなっていました。おじさんがいないのは、確実でした。
「よし」
ニヤリとします。
でも、ちょっとまって下さい。冷静になって考えると、ヘンです。なにをそんなに必死になって、にげる必要があるのでしょうか? ここにいて、なにか不都合なことでも? せっかく海上での、生命危機から、だっしたばかりなのに。
ナップサックのなかみ? バレたところで、命を天秤にかけねばならぬほどの、お咎めがあるというのでしょうか、子の彼に?
もはや彼は、にげることに「なれっこ」になってしまって、ただの習性になっているだけ、なのもしれません。
そもそも、にげるという行為自体が、すでに敗北です。しかし、逃走をやめるということは、それを確定させることでもありました。心の慣性は、じみな着地より、ハデな飛躍の方を好むみたいです。
ふいに立ち止まると、クルッと回り右して、彼は小走りに中に引きかえしました。
行内に入ると、またすぐ、外に出てきてしまいました。なにやら、水道と花壇と植木のあたりを、ウロウロ歩きだします。――と、なにか思い出したように、また中に引っこんでしまいました。
彼は、あるモノをさがしていました。シャベル、できればスコップのような、土の掘れそうなモノを。しかし、いくらさがしても、それらしいものは見つかりませんでした。気がつくと彼は、おじさんといた、あのヘヤの、おくのドアの前にいました。
なんとなく、そこが立ち入り禁止なのは、彼にもわかっていました。ハッキリそういわれたワケでもありませんが、子としてのモラトリアムの立場と、大人の言質のなさを悪用し、(罪悪感から免れるため)心をニュートラルに入れ、ドアノブに手をかけました。
中はうす暗く、ちょっぴりヒンヤリしていました。カンオンが明るさをまし、壁の照明スイッチを、ポインターのように赤くさしました。黄色みがかったクリーム色のパネルに、「黒い▲の突起物を、おしてください」と、緑のフォントがうかびました。
照明がついても、ヘヤの中は、まだ陰っていました。よせられたデスクとオフィスチェア。その上のタワーになった紙の山と、床から天井まで塞いだダンボール。それらに遮られ、光がすみずみまで、とどいていませんでした。うす暗いヘヤの中は、前に見たとおり、他になにもありませんでした。
洞窟じみた道が、まっすぐのびていました。まったく意味はありませんが、足あとだらけの書類のモザイク状のスキマを、とびとびで進でゆきます。そのおくに、またトビラがありました。彼は、ほとんど躊躇することなく、それへ手をかけていました。
冷気につつまれ、彼は身震いします。カンオンがさらに明るさをますと、痛いくらいの白光が目をさしました。
ムダに明るい蛍光管のそのヘヤは、打ちっぱなしのコンクリートの壁にかこまれた、半地下の空洞になっていました。ダクトやパイプ、黒いケーブルが壁際と天井を走り、それらが右へうねって傾斜し、滝のように地下へと落ちていました。
銀色の千鳥格子のような、すべり止めのついたタラップにのぼると、天井のダクトに頭がくっつきそう。大人なら身をかがめねば、とおれないところです。手に青白い粉のつく、ペンキくさい手すりをつたい、やわらかいクツで、ポンポンおりていきました。
こんどのドアは、手動ではありません。侵入者を拒むよう、つるっとしていて、なにもない表面。うわべからでも分かる分厚さと、重量感がありました。
うめこまれた小さなモニター画面の下に、なじみのない外国語が書かれています。たよるべきカンオンは、どういうわけか、目の前にそれがないかのように無反応。カンオンのマップよく見たら、書類部屋までしか、表示されていませんでした。
「チッ」
オフラインの画像検索では、製品登録は見つかりませんでした。画像分析から、トビラは生体認証つきのようでした。保安のためか、開けるための必要な要件が出てきません。しかたないので、カンオンの構造分析からえた、開閉条件を試みます。
右足を一歩前にだし、やおら、モニター直下にすすみ出るソル。蒼白い顔が見えなくなる間近まで、ちかづけました。
せわしなくパチパチまばたきしたり、おでこを画面にくっつけたり、ハァーッと息をふきかけたり。顔をはなすと、画面をバンバンたたき、ペタペタさわりまくって、指紋だらけにしました。
「ワッ!」
大声を出すソル。
無反応。
こんどは足ぶみです。その場でグルグル行進をはじめました。はたで見ていたら、莫迦みたい。だれにも見られたくない光景でした。
そりゃそうだよ。あの、じいさんじゃなんだから……。
「まぁ、いいっか」
彼としては、早めにあらめました。
「――ていうか、こんなこと、しているばあいじゃねえよ!」
目的を思い出すと同時、シロフォンのロールが鳴り出しました。さっき、じぶんで設定しておいた、警告音です。ぐずぐずしていたせいで、おじさんが、もどってきてしまいました。
走り出すソル。心臓バクバクです。
台所へかけこむと、みょうな機転をきかして、下の段からじゅんじゅんに、ひき出しを開けていきます。ガチャガチャかき回してあさり、クチバシみたいな横口お玉と、マイナスドライバーを引っつかみました。水道から直で水をカブのみすると、外へとび出ました。
全力疾走で駐車場の反対側へまわるとちゅうで、ある考えが、ひらめきました。
「おい、キンキューじたいだ! おまえ、ここにのこれ!」
走りながら、カンオンにどなります。
「キンキューじたい! イノチが、かかってんぞ!」
自分の命を人質に、おどしかけます。
「今だけだかんな! 後でちゃんと合流しろよ!」
息を切らしていても、ちゃっかり保険をかけるのを忘れないあたりが、現代っ子です。
「キンキューじたいだから、はなれろ!」
カンオンのうごきが鈍くなり、空中静止しました。フラフラしはじめると、だんだんフリが大きくなって、形も大きさも不規則な楕円を、自転しながらえがき出しました。それを何周も不器用にくりかえし、安定した高速回転へと移行していきます。
――と、遠心力でタガが外れたように、空のどこかへ飛び去ってしまいました。
全力で走って、横っ腹がいたくなってきました。
「とりあえず、すこし休ませろ」
ヘナヘナちどり足で失速し、ベッタリ道にりょう手をついて、へたりこみました。心音が他人のたてる音のように、ドッドッと耳をうちます。ゼーゼー息が上がって、すわりこんだまま、空をあおいでいます。呼吸を整えていました。
目のはしに、光りがよぎりました。いつもの心配性だよと、錯覚ですませたかったのですが、サーチライトのように回ると、ハイビームが彼を直撃しました。
光の洪水におぼれるソル。なにもかも、まっ白。頭の中も、まっ白でした。
腰をうかせたまま、なすすべのないソル。ハイビームのまま、車が止まりました。停止しても、アイドリングストップしない車。軽にしては、大き目のドアが開きました。
衝撃が走りました。ジムニーではありません。ジープでした。もちろん車種なんて、彼にはわかりませんが、たしかにそれは、おじさんの車ではありませんでした。
黒い人影がおりてきました。
「おい、にげんなよ」
シルエットの男は、いいました。
「おまえを保護するよう、銀行屋がみんなに、お達ししたんでね」
ソルは借りてきたネコみたいに、おとなしく助手席に、のりこみました。
後部座席と屋根の幌を外した、古いジープ・ラングラーは、まっすぐ、北サツマ通りを目ざしています。二人とも、むごんでした。彼いじょうに無口な大人に、ソルは恐怖をおぼえました。寡黙が人を侵害するのを、彼は、はじめて客観的に思い知らされました。