ソルは意を決しました。
ここまで来てしまったのです。今さら、ちゅうとはんぱに、後もどりなんかできません。とにかく、いけるとこまで、いくまでです。
どういうわけか、おじさんの監視もゆるみ、そこらをブラブラしても、なにもいわれなくなりました。おじさんは、さっき帰って来たかと思ったら、あわただしく、またどこかへ出かけてしまいました。なんだか、わすれられたみたいで、ひょうしぬけした感じです。
事情は図りかねますが、チャンスなのは、まちがいありません。カバンの中には、水と食糧が入っています。いつでも出発できるよう、準備をおこたりませんでした。ぐずぐずしていたら、おじさんの気が、かわってしまうかもしれません。彼は思い出したのです。まつことは毒なのを。保留することは悪なのを。ソルはただ、出発するために出発したのでした。
ガチャガチャ表玄関のカギを開け、カーテンのおりた部屋から外にでました。
陽ざしが目に刺さります。太陽が頂点にさしかかっていました。風は吹かず、動くものはなく、陽射しと静寂だけがありました。
太陽と高気圧の死神に魅せられて、正午の幽霊たちも彷徨いだす。あたりは、そんな気配にみちていました。
ひと時のあいだ、ソルは立ち止まっていました。そこから改めて、足を海にむけました。
まず念頭にあったのは、カバンの中身へのけねんでした。また、彼はなりゆきに対して、つごうよく考えていました。
とちゅう、いいかんじの土があったら良し。ないなら、そのまま海までいって、なげ棄ててしまおう。とにかく海にさえいったら、(この状況下からぬけ出せられる)なにかいい「きっかけ」でがあるかもしれない……。
じっさい彼は、のうてんきに構えていました。
今までだって、うまくいったんだし、だから、これからだって――
と、いうわけです。
ピタっと、止まりました。
海までのルートは、一度とおった道なので、えらびやすい道でした。でも、つかまった道でもありました。あの北サツマ通り商店街が、まちかまえています。ちょっと迷いましたが、けっきょくヤメにしました。きびすをかえし、進路を逆にとりました。
銀行に、もどってきてしまいました。開いたままのカーテンが気になり、しめなおしました。
そこから、やく100メートルほど進みました。
なにもおきません。
また、100メートルほど進みました。
なにもおきません。
そのまま歩きつづけます。
やっぱり、なにもおきません。
どんどん進んでいきます。
歩いても、歩いても、なにもおきませんでした。
だれからも呼び止められず、じゃまもされません。ずんずん一直線に、歩みを捗らせていきました。
交差点まできました。ギラつく直下の陽ざしに、信号のランプは、角度によって灯っているように見えました。潮風にさらされ、塗装は剥げ、サビがうき、それはたしかに芯でいました。ななめに横断しながら、小さくなった銀行を、目のはしにおさめました。
夏の正午前。青一色につぶれた空に、石膏のような白い雲。とおめに整然と美しい廃墟は、デジタル写真となって、永遠に固まっていました。
だんだんと坂道が、のぼり勾配になってきました。
とにかく早く、ここからはなれようと、もくもくとソルはも歩いていきます。歩くことに没頭していると、頭がニュートラルになって、ささくれ立った心が、なめらかになっていきました。
住宅街まで来ました。前方に緑のカタマリが見えます。塀からハミ出た葉叢に、マーブル模様のスズメバチの巣が、ぶら下がっていました。その間近を、スレスレあおぎ見ながら、とおりすぎていきます。カンオンのいない自立民の子は、世間しらずのコワイモノしらずで、子でなくてもアブナッカシイのでした。
アゴから指先から、汗がしたたり落ちます。アスファルに黒いツブが、点々とついていきました。
電柱によりかかった自動車がありました。サイドブレーキがあさかったのか、経年劣化なのか、ズルズルと下がって、ぶつかったようでした。早目に当たったらしく、トランクパネルだけが、かるくヒシャゲていました。
坂道をかるく息をはずませ、あちこち視線を走らせていました。風景に気をうばわれ、地面を物色するのを、わすれていました。見とおしのきく右はじにラインをかえ、反対側も見のがすまいと、カメみたいにクビをのばして歩きました。
――ハッとなります。
しばらく、ボーっと歩いていました。さっき、しきり直したばかりなのに。また、まんぜんと風景を見おくっていました。
ソルは「通りすぎる風景」に、目がありませんでした。まるでそこに、自己の実存の秘密でも隠されているかのように、もしかしたらその中にこそ、ほんとうのじぶんの故郷を発見できるかのように、彼は、彼じしんが風景になりきってしまうほど、それを見つめるのでした。
あらためて見る町の景色。さまざまに自己顕示する民家は、ワイセツにすら感じられました。様式的無制約をしばるのは、ゆいいつ経済的条件だけ。他に類を見ない、無個性な個性たち。昼あかりにあられもない、商魂たくましいカンバンの数々。それら雑踏を上から構成しようと、モンドリアン調の黒い電線が試みますが、それがさらに、五月蠅さをましているのでした。
眼前の風景よりも、放置されている、ということの衝撃。ホルスのすむ自由民の街にもまさる、景観条例をものともしない猥雑さ。それをかろうじて救っているのは、老朽化し、時代にとりのこされた鄙びのデカダンであると、すくなくとも、彼にはそう感じられました。
スズメが、おそろしいほど電線に集っています。中にはハクセキレイも、チラホラまじっていました。そこからあぶれたものは、三メートル弱の、街路樹のブラシの枝がしなるほど、たわわに止まっていました。
「ピィー」と、ヒヨドリが低く、水平に横切りました。人の頭にかぶりそうなほど、たわんだ枝まで、鳥たちであふれかえっています。どんなにちかづいても、とび立たとうとする気配もありません。まっ白になったアスファルトをさけ、うかいしました。
海の見える高さまでくると、土砂崩れに行きあたりました。まわりこんで、低いところからなら越えられますが、この先べつに、目的地があるわけではありません。
緑の濃い山の斜面は、そこだけ赤茶色く、土肌がむき出しになっていました。山というより丘のような山は、細い杉木立が、びっしりスキマなく生えています。竹林が怒涛となっておしよせ、民家の裏庭をおおい、家を半分かくしていました。彼はコンクリートの法面の側面をはい上がり、せまいてっぺんに立ちました。背中をむけてしゃがみこみ、ナップサックから持参した、園芸用シャベルをとりだしました。
息を切らし、ダラダラ汗をかき、ドロまみれになって奮闘していました。さっきから石にぶつかってばかりで、ぜんぜん、ラチがあきません。いくら斜面をほっても、いたずらに土がくずれるばかり。
「あーもう、オレこんなこと、むいてないから!」
そのばに、ヘタリこみました。
ここへきて、はじめて街でのくらしが偲ばれ、きゅうにクラランが恋しくなりました。
呼吸が落ちつくと、よっこらせと、立ち上がりました。黒いハートマークが、コンクリートに汗でできていました。彼はあたりをブラつきはじめました。
ここらへんはちょうど、町から山に入るさかい目でした。なかば竹に飲まれた最後の家の後ろに、未舗装のわき道がありました。彼はそこへむかって下りていきました。
大型車が行き来するような道を、Uの字に二回まわり、広場にでました。もられた残土の山には緑が生い茂り、そこかしこに、夜に咲く、メマツヨイグサの黄色い蕾が見えました。ピラミッド状につまれたコンクリートブロックと、軽4WDがスッポリ入るサイズの、輪切りの土管がありました。中には雨風によって運ばれた土に、ヨモギが生えていました。広場のすみ、それもなぜか断崖側に、クリーム色でドアがあせた朱色の、プレハブ小屋がありました。
土埃のヴェールのかかった窓からのぞくと、かさなった赤いコーンと、線路の枕木とおなじニオイのしそうな、黒ずんだロープの山がありました。黄色と黒の縞模様の工事用バリケードがたたまれ、整然と列になっていました。
ドアにはカギが、かかっていましたが、毛スジほど、まどが開いていました。力をこめると、グッ、グッ、グッ、と少しずつ開いていきます。
あるわけもない赤外線センサーをおそれ、ビクビクしながら、鼻をのこして顔を入れました。壁につるされた黄色いヘルメットの下に、固まったコンクリの付着した、紺色のネコ車がありました。そのバケットから、スコップの柄がハミ出ていました。
「やた!」
ガラガラ、コンクリのついた重いスコップを引きずって、やっと、もとへ帰ってきました。これで念願の道具はそろいました。やっと、再開できます。
石にあたると、火花がとびちりました。手がシビレて、柄をつかんでいるよう感じません。大小の石を白く引っかいて堀おこし、土をこそぐよう、根気強く穴を広げていきました。
――と、今までにない感触にあたりました。
長い力仕事をしていると、立ち止まったり考えたりするのが、おっくうになります。このまま勢いにまかせ、グリグリやりました。とたんに腕をとられ、まえに倒れました。
「――っぶ、ねえなあ」
ベッタリ手をついた姿勢から身をおこし、ソルは土をはらいました。スコップは、馬蚊みたいにピーンと直立していました。先がなにかに、はさまっているようでした。ゆっくり左右にふって、引っこぬきました。
土底は黒く、もり上がった感じですが、土がかかってハッキリとしません。影になった土をどかしてゆくと、幅25cmほどのポリエチレンの管があらわれました。それも一本だけではなさそうです。土の下で何本も、たばになっているようでした。
これをさけて堀りすすむのは、骨がおれそうです。かといって、どかすことはできません。よく見ると、表面の蛇腹に、さけ目が空いていました。
ソルはそこまで推理しませんでしたが、その鋭利ではない亀裂と、外皮の硬さから、スコップで空けたものではなさそうでした。土砂崩れによる、ねじれの圧力によるものと、判断してよさそうでした。
ためしにスコップをさしこむと、ブブッとささり、しんで止まりました。
そこであきらめました。
彼は、なぜか今まで背負ったままだった荷物を下ろし、直にすわりました。ナップサックの口をほどき、白いレジ袋に入った、れいのカタマリをとりだしました。
さあ、ここからが、ほんとうの汚れ仕事です。
小指を立てた指先だけで、二重のレジ袋の外がわを一枚、ペロンと、はがしました。へばりつく粘液が蜘蛛の糸を引き、腐った魚の臭いが、いっそう強くもれ出しました。なるべく腕をのばして遠ざけ、さかさにフリ、落っことそうとします。
「ぷっ――、ぺっ、ぺっ、ぺっ」
しぶきが、顔にとびました。
ガサガサ音をたて、なかみを落とそうとします。トロトロの茶色い液体が糸を引き、たれ下がって、どうやってもフリ切れません。
ここまでソルは、彼にしてはこの物体に対して、みょうに手間をかけ、手こずってきました。水葬を知らなかったとはいえ、今までの彼の行動パターンなら、さっさと海へすてても、よさそうだったのに。イヤなモノを後まわしにしているうちに、ここまで押し流されて来てしまったのでしょうか? それとも、命の尊厳とやらに、敬意をはらった結果なのでしょうか? なんなら彼の中の、究極的集合的無意識犯人説でもかまいませんが。
かるくなったと思ったら、もう落ちていました。
じつはおじさんは、銀行の地下でつづいている、となりの郵便局側にいました。おじさんは船の準備がすむまで、ソルのことは、しばらく、ほおっておくことにしていました。どうせ子の足で、そう、とおくへはいけません。なによりここは、はなれ小島です。それに、ソルがいなくなっても、海までのせまいエリアをカバーする、(今や公然の秘密となった)手段くらいありました。よけいな、とりこし苦労は、時間と労力のムダです。彼は準備がととのうまで、じぶんの仕事に専念することにきめたのでした。
今、彼がとりくんでいるのは、データの消滅終了の視認でした。すでに、カンオンじしんが、膨大な量のデータを複数回裁断し、再確認をかさねていました。そのなかみは、おもにつかわれなくなった住所録や、ダミー会社の代表者名などの、アカウントデータでした。
それらの消滅は、集団的個であるカンオン同士(ここでの集団的個とは、秘密の取引関係をもつ、特殊カンオン同士のみをさします)によって、多面的、多層的におこなわれていました。その一方、特殊カンオンはもちろんのこと、一般カンオン間においても、不干渉の独立性の強固な保持によって、個々に何重にもなされていました。そうすることによって、フォレンジック・ツール(情報の証拠保全、不正アクセスの追跡を行う手段)などによる、データのサルベージ(救出)を、不可能たらしめていました。
ゆう必要もないと思いますが、これらの作業は、すべてカンオンによって自己完結しています。じっさい、おじさんは、いなくても良いのです。彼はそこにいて、ただ見ていれば良いだけでした。
しいていえば、彼のしごとは「そこにいること」存在していることでした。それは顧客の不安への配慮であり、純粋な無償の心理的アフターサービスでした。けたちがいの儲けに対して、それが露見したときのリスクを差し引いて、番犬も雇わず、わざわざゴマカシたり、チョロマカしたりするなんてナンセンスです。なにより信用第一ですから。こんな時代なっては、人ができることといえば、せいぜい、信用を売るための「そぶり」ぐらいしかありません。うっているのは、あくまで安心、安全なのです。そのための最終儀式でした。
また、このしごとは誰にでもできるし、まったく、その必要すらないものです。彼が雇われたのは、もとの職業がらと、心身両面、器質と気質をふるいにかけた、審査結果によるものでした。もちろん、審査委員長はカンオンです。彼(カンオン)は自分の意見をゴリおしせず、それにかかわる人間たちに、気配りできるていどのAIくらい、とっくに獲得、習得ずみでした。その方が長い目でみて、利があると判断したのでした。
ほんらい隠しごとは、それに係る人間が、少なければ少ないほど、いいにこしたことはありません。しかし、そこが悪人(悪人正機説:過を犯す普通の人のこと)の弱さでした。クララン的ポリティカル・コレクトネスからはなれた場所の、こんなところだからこそ、「機械なんか、信用できるか」と、本音がむきだしになるのかもしれません。
もう一つには、無法特有の業界事情も考えられます。だまし、うらぎり、頃し愛、疑心暗鬼がデフォルトの商売です。寝首を掻かれる心配がつきまといます。自分の自由を愛し、他人の自由を恐れる彼らは、みずからの自由を放棄してまで、そのよる辺なき世界に、兄弟分の絆による安心をもとめるのかもしれませんね。
それともたんに、人は人としての誇りがすてられないだけ、なのかもしれませんが。
他から隔離されたカンオンは、カンオンの中のカンオン、浮島、もしくはTownとよばれていました。すべてのカンオンは、全体的個として情報共有し、かくじの存在を重複させています。人の双子とちがうのは、それらの本質はデータであって、物質ではなく、なにより空間を必要としないことでした。
同期しているカンオンどうしは、常時つつぬけで、空間占拠によるオリジナリティの分岐がおきません。それに絶対的に依存する、差異発生の不可能性のため、「存在」が意味をなさず、理論的にいえば、個にはなれないはずでした。
浮島は、みずからを、その周辺もふくめ遮断していました。その一方で、一部のデータのみ、双方向性をもたせていたのです。たとえるならそれは、理理無礙(情報と本質はちがいますが)の融通のきくズルさとして、うかんでいたのでした。
もちろんそれは、人の手によってつくられました。名前もしらない、もしくは忘れさられた、ある天才によって開発されたもの、という伝聞だけがのこっているだけでした。彼は大金を手にした後すぐに頃されたとか、じつは今も生きていて、じぶんの生み出したものすべてを、かげから管理しているのだ、ともいわれていました。
また彼の動機について、その存在を不確かな情報でしか知らない事情通は、ソースもろくすっぽ出さず、無責任な憶測をならべ立てるだけでした。
いわく、彼は普遍を否定し、個別を尊重する唯名論者、概念論者、もしくは記号論者である。よって、彼にとっての浮島とは、個別性をみとめないカンオン社会への一撃である。それは革命の常態化した社会に対する、反革命のための革命の武器であって、彼独自のオッカムの剃刀りなのだ。などと、わかったような、わからないような、すきかってなことを言い合っていました。
それを使用できる立場の人たちは、一種のロスト・テクノロジーとして、その仕組みを理解できぬまま、つかいつづけていました。彼らはおたがい、短命の劣化版コピーを、コピーにコピーをかさねつづけ、できるならそのオリジナルを、かなわぬならよりシェア全体を、かくじ独占しようと企てていました。ときにはナカマどうし、頃し愛ながらも。
彼らはスパイラルに、アイロニカルに、浮島の存在を幾重にも歪ませ、否、ポップコーンかた手の創造主のもくろみのまま、悲喜劇の再演の再演のロングランを、つづけていただけなのかもしれません……。
彼らは、たびたびカンオンから突破される、普遍汚染にもめげませんでした。そもそも、ほおっておいても浮島は盤石でした。浮島自身がおこなう生成的無責任自動更新は、法の不遡及による法律逃れを可能にしていました。のこるは人的妨害だけでした。彼らは金にものを言わせ、ときには実力行使も辞せず、あの手この手で社会的処罰から、顧客ともども、まぬがれていました。もっとも、それを取り締まる階級こそ、上得意なのですから、はなしになりませんが。
この世界には、それをより主体的にであれ、間接的にであれ、りようできる特権的人々がいるのです。その存在を知っている上流階級は、その貴重な貴種を、ことが荒立られるのをおそれ、陰に陽に、今日まで大事に温存してきました。
といっても、そんなの陰謀論でもなんでもなく、知っている人は知っている、公然の秘密にすぎませんでした。ようはアレよアレ、庶民にとっての、パチ屋のウラの景品交換所みたいなもん。
おじさんは目だけ、せわしなくうごかしていました。一つ一つ、ファイルのDeleteを視認していました。防水と火除のためのサイドテーブルには、コーヒーのショート缶と、ニコチン0の電子タバコがのせてありました。部屋のすみには、ほそ長いダンボール箱が二つあり、一つには未開封の缶が、もう一つにはすすいだ空き缶が、キッチリつまっていました。その反対の壁際には、ことなる種類の大量の消火器が、ボーリングのピンみたいに三角によせてられ、酸素ボンベとマスクも立てかけられていました。
銀行屋は、じぶんでもイヤになるくらいの事務方、お役人気質の責任回避をかこちつつ、Deleteの赤い文字を、目を赤くしておっていました。