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      ダーティ・ワーク 2 地下


 ソルはけっしました。

 ここまで来てしまったのです。今さら、ちゅうとはんぱに、後もどりなんかできません。とにかく、いけるとこまで、いくまでです。

 どういうわけか、おじさんの監視かんしもゆるみ、そこらをブラブラしても、なにもいわれなくなりました。おじさんは、さっき帰って来たかと思ったら、あわただしく、またどこかへ出かけてしまいました。なんだか、わすれられたみたいで、ひょうしぬけした感じです。

 事情じじょうはかりかねますが、チャンスなのは、まちがいありません。カバンの中には、水と食糧しょくりょうが入っています。いつでも出発しゅっぱつできるよう、準備じゅんびをおこたりませんでした。ぐずぐずしていたら、おじさんの気が、かわってしまうかもしれません。彼は思い出したのです。まつことはどくなのを。保留ほりゅうすることはあくなのを。ソルはただ、出発しゅっぱつするために出発しゅっぱつしたのでした。

 ガチャガチャ表玄関おもてげんかんのカギを開け、カーテンのおりた部屋へやから外にでました。

 ざしが目にさささります。太陽たいよう頂点ピークにさしかかっていました。かぜかず、うごくものはなく、陽射ひざししと静寂せいじゃくだけがありました。

 太陽たいよう高気圧こうきあつ死神しにがみせられて、正午しょうご幽霊ゆうれいたちも彷徨さまよいだす。あたりは、そんな気配けはいにみちていました。

 ひと時のあいだ、ソルは立ち止まっていました。そこからあらためて、足を海にむけました。

 まず念頭ねんとうにあったのは、カバンの中身なかみへのけねんでした。また、彼はなりゆきに対して、つごうよく考えていました。

 とちゅう、いいかんじの土があったらし。ないなら、そのまま海までいって、なげててしまおう。とにかく海にさえいったら、(この状況下じょうきようかからぬけ出せられる)なにかいい「きっかけ」でがあるかもしれない……。

 じっさい彼は、のうてんきにかまえていました。

 今までだって、うまくいったんだし、だから、これからだって――

 と、いうわけです。

 ピタっと、止まりました。

 海までのルートは、一度とおった道なので、えらびやすい道でした。でも、つかまった道でもありました。あの北サツマ通り商店街しょうてんがいが、まちかまえています。ちょっとまよいましたが、けっきょくヤメにしました。きびすをかえし、進路しんろぎゃくにとりました。

 銀行ぎんこうに、もどってきてしまいました。開いたままのカーテンが気になり、しめなおしました。

 そこから、やく100メートルほどすすみました。

 なにもおきません。

 また、100メートルほどすすみました。

 なにもおきません。

 そのまま歩きつづけます。

 やっぱり、なにもおきません。

 どんどんすすんでいきます。

 歩いても、歩いても、なにもおきませんでした。

 だれからもび止められず、じゃまもされません。ずんずん一直線いっちょくせんに、歩みをはかどらせていきました。

 交差点こうさてんまできました。ギラつく直下ちょっかざしに、信号しんごうのランプは、角度かくどによってともっているように見えました。潮風しおかぜにさらされ、塗装とそうげ、サビがうき、それはたしかにしんでいました。ななめに横断おうだんしながら、小さくなった銀行ぎんこうを、目のはしにおさめました。

 なつ正午前しょうごまえ。青一色につぶれた空に、石膏せっこうのような白いくも。とおめに整然せいぜんうつくしい廃墟はいきょは、デジタル写真しゃしんとなって、永遠えいえんかたまっていました。




 だんだんと坂道さかみちが、のぼり勾配こうばいになってきました。

 とにかく早く、ここからはなれようと、もくもくとソルはも歩いていきます。歩くことに没頭ぼっとうしていると、あたまがニュートラルになって、ささくれ立ったこころが、なめらかになっていきました。

 住宅街じゅうたくがいまで来ました。前方にみどりのカタマリが見えます。へいからハミ出た葉叢はむらに、マーブル模様もようのスズメバチのが、ぶら下がっていました。その間近まぢかを、スレスレあおぎ見ながら、とおりすぎていきます。カンオンのいない自立民じりつみんの子は、世間せけんしらずのコワイモノしらずで、子でなくてもアブナッカシイのでした。

 アゴから指先ゆびさきから、あせがしたたり落ちます。アスファルに黒いツブが、点々てんてんとついていきました。

 電柱でんちゅうによりかかった自動車じどうしゃがありました。サイドブレーキがあさかったのか、経年劣化けいねんれっかなのか、ズルズルと下がって、ぶつかったようでした。早目にあたたったらしく、トランクパネルだけが、かるくヒシャゲていました。

 坂道さかみちをかるくいきをはずませ、あちこち視線しせんを走らせていました。風景ふうけいに気をうばわれ、地面じめん物色ぶっしょくするのを、わすれていました。見とおしのきく右はじにラインをかえ、反対側はんたいがわも見のがすまいと、カメみたいにクビをのばして歩きました。


――ハッとなります。

 しばらく、ボーっと歩いていました。さっき、しきりなおしたばかりなのに。また、まんぜんと風景ふうけいを見おくっていました。

 ソルは「通りすぎる風景」に、目がありませんでした。まるでそこに、自己じこ実存じつぞん秘密ひみつでもかくされているかのように、もしかしたらその中にこそ、ほんとうのじぶんの故郷いばしょ発見はっけんできるかのように、彼は、彼じしんが風景ふうけいになりきってしまうほど、それを見つめるのでした。

 あらためて見るまち景色けしき。さまざまに自己顕示じこけんじする民家みんかは、ワイセツにすら感じられました。様式的無制約ゆるさをしばるのは、ゆいいつ経済的条件ビンボーだけ。他にるいを見ない、無個性むこせい個性こせいたち。ひるあかりにあられもない、商魂しょうこんたくましいカンバンの数々かずかず。それら雑踏ざっとうを上から構成コンポジションしようと、モンドリアン調ちょうの黒い電線でんせんこころみますが、それがさらに、五月蠅うるささをましているのでした。

 眼前がんぜん風景ふうけいよりも、放置ゆるされている、ということの衝撃しょうげき。ホルスのすむ自由民いそんみんまちにもまさる、景観条例けいかんじょうれいをものともしない猥雑わいざつさ。それをかろうじてすくっているのは、老朽化ろうきゅうかし、時代じだいにとりのこされたひなびのデカダンであると、すくなくとも、彼にはそう感じられました。

 スズメが、おそろしいほど電線でんせんたかっています。中にはハクセキレイも、チラホラまじっていました。そこからあぶれたものは、三メートルじゃくの、街路樹がいろじゅのブラシのえだがしなるほど、たわわに止まっていました。

「ピィー」と、ヒヨドリが低く、水平すいへいに横切りました。人のあたまにかぶりそうなほど、たわんだえだまで、鳥たちであふれかえっています。どんなにちかづいても、とび立たとうとする気配けはいもありません。まっ白になったアスファルトをさけ、うかいしました。

 うみの見える高さまでくると、土砂崩どしゃくずれに行きあたりました。まわりこんで、低いところからならえられますが、この先べつに、目的地もくてきちがあるわけではありません。

 みどりい山の斜面しゃめんは、そこだけ赤茶色あかちゃいろく、土肌つちはだがむき出しになっていました。山というよりおかのような山は、細い杉木立すぎこだちが、びっしりスキマなく生えています。竹林ちくりん怒涛どとうとなっておしよせ、民家みんか裏庭うらにわをおおい、家を半分かくしていました。彼はコンクリートの法面のりめん側面そくめんをはい上がり、せまいてっぺんに立ちました。背中せなかをむけてしゃがみこみ、ナップサックから持参じさんした、園芸用えんげいようシャベルをとりだしました。

 いきを切らし、ダラダラあせをかき、ドロまみれになって奮闘ふんとうしていました。さっきから石にぶつかってばかりで、ぜんぜん、ラチがあきません。いくら斜面しゃめんをほっても、いたずらに土がくずれるばかり。

「あーもう、オレこんなこと、むいてないから!」

 そのばに、ヘタリこみました。

 ここへきて、はじめてまちでのくらしがしのばれ、きゅうにクラランがこいしくなりました。

 呼吸こきゅうが落ちつくと、よっこらせと、立ち上がりました。黒いハートマークが、コンクリートにあせでできていました。彼はあたりをブラつきはじめました。

 ここらへんはちょうど、町から山に入るさかい目でした。なかばたけまれた最後さいごの家の後ろに、未舗装みほそうのわき道がありました。彼はそこへむかって下りていきました。

 大型車おおがたしゃが行き来するような道を、Uの字に二回まわり、広場ひろばにでました。もられた残土ざんどの山にはみどりが生いしげり、そこかしこに、夜にく、メマツヨイグサの黄色きいろつぼみが見えました。ピラミッドじょうにつまれたコンクリートブロックと、けい4WDがスッポリ入るサイズの、輪切わぎりりの土管どかんがありました。中には雨風あめかぜによってはこばれた土に、ヨモギが生えていました。広場ひろばのすみ、それもなぜか断崖側だんがいがわに、クリーム色でドアがあせた朱色しゅいろの、プレハブ小屋ごやがありました。

 土埃つちぼこりのヴェールのかかったまどからのぞくと、かさなった赤いコーンと、線路せんろ枕木まくらぎとおなじニオイのしそうな、黒ずんだロープの山がありました。黄色きいろくろ縞模様しまもよう工事用こうじようバリケードがたたまれ、整然せいぜんれつになっていました。

 ドアにはカギが、かかっていましたが、毛スジほど、まどが開いていました。力をこめると、グッ、グッ、グッ、と少しずつ開いていきます。

 あるわけもない赤外線せきがいせんセンサーをおそれ、ビクビクしながら、はなをのこしてかおを入れました。かべにつるされた黄色きいろいヘルメットの下に、かたまったコンクリの付着ふちゃくした、紺色こんいろのネコぐるまがありました。そのバケットから、スコップのがハミ出ていました。

「やた!」




 ガラガラ、コンクリのついたおもいスコップを引きずって、やっと、もとへ帰ってきました。これで念願ねんがん道具どうぐはそろいました。やっと、再開さいかいできます。

 石にあたると、火花ひばながとびちりました。手がシビレて、をつかんでいるよう感じません。大小の石を白く引っかいてほりおこし、土をこそぐよう、根気強こんきづよあなを広げていきました。

――と、今までにない感触かんしょくにあたりました。

 長い力仕事ちからしごとをしていると、立ち止まったり考えたりするのが、おっくうになります。このままいきおいにまかせ、グリグリやりました。とたんにうでをとられ、まえにたおれました。

「――っぶ、ねえなあ」

 ベッタリ手をついた姿勢しせいから身をおこし、ソルは土をはらいました。スコップは、馬蚊みたいにピーンと直立ちょくりつしていました。先がなにかに、はさまっているようでした。ゆっくり左右にふって、引っこぬきました。

 土底つちぞこは黒く、もり上がった感じですが、土がかかってハッキリとしません。かげになった土をどかしてゆくと、はば25cmほどのポリエチレンのくだがあらわれました。それも一本だけではなさそうです。土の下で何本なんぼんも、たばになっているようでした。

 これをさけてりすすむのは、ほねがおれそうです。かといって、どかすことはできません。よく見ると、表面ひょうめん蛇腹じゃばらに、さけ目がいていました。

 ソルはそこまで推理すいりしませんでしたが、その鋭利えいりではない亀裂きれつと、外皮がいひかたさから、スコップでけたものではなさそうでした。土砂崩どしゃくずれれによる、ねじれの圧力あつりょくによるものと、判断はんだんしてよさそうでした。

 ためしにスコップをさしこむと、ブブッとささり、しんで止まりました。

 そこであきらめました。

 彼は、なぜか今まで背負せおったままだった荷物にもつを下ろし、じかにすわりました。ナップサックの口をほどき、白いレジぶくろに入った、れいのカタマリをとりだしました。

 さあ、ここからが、ほんとうのよご仕事しごとです。

 小指こゆびを立てた指先ゆびさきだけで、二重にじゅうのレジぶくろの外がわを一枚いちまい、ペロンと、はがしました。へばりつく粘液ねんえき蜘蛛クモいとを引き、くさっったさかなにおいが、いっそう強くもれ出しました。なるべくうでをのばしてとおざけ、さかさにフリ、落っことそうとします。

「ぷっ――、ぺっ、ぺっ、ぺっ」

 しぶきが、かおにとびました。

 ガサガサ音をたて、なかみを落とそうとします。トロトロの茶色ちゃいろ液体えきたいいとを引き、たれ下がって、どうやってもフリ切れません。

 ここまでソルは、彼にしてはこの物体ぶったいに対して、みょうに手間をかけ、手こずってきました。水葬すいそうらなかったとはいえ、今までの彼の行動こうどうパターンなら、さっさと海へすてても、よさそうだったのに。イヤなモノを後まわしにしているうちに、ここまでながされて来てしまったのでしょうか? それとも、いのち尊厳そんげんとやらに、敬意けいいをはらった結果けっかなのでしょうか? なんなら彼の中の、究極的集合的無意識かみ犯人説はんにんせつでもかまいませんが。

 かるくなったと思ったら、もう落ちていました。




 じつはおじさんは、銀行ぎんこう地下ちかでつづいている、となりの郵便局側ゆうびんきょくがわにいました。おじさんはふね準備じゅんびがすむまで、ソルのことは、しばらく、ほおっておくことにしていました。どうせ子の足で、そう、とおくへはいけません。なによりここは、はなれ小島こじまです。それに、ソルがいなくなっても、海までのせまいエリアをカバーする、(今や公然の秘密となった)手段しゅだんくらいありました。よけいな、とりこし苦労ぐろうは、時間じかん労力ろうりょくのムダです。彼は準備じゅんびがととのうまで、じぶんの仕事しごと専念せんねんすることにきめたのでした。

 今、彼がとりくんでいるのは、データの消滅終了しょうめつしゅうりょう視認チェックでした。すでに、カンオンじしんが、膨大ぼうだいりょうのデータを複数回ふくすうかい裁断さいだんし、再確認ベリファイをかさねていました。そのなかみは、おもにつかわれなくなった住所録じゅうしょろくや、ダミー会社がいしゃ代表者名だいひょうしゃめいなどの、アカウントデータでした。

 それらの消滅しょうめつは、集団的個しゅうだんてきこであるカンオン同士どうし(ここでの集団的個とは、秘密の取引関係をもつ、特殊カンオン同士のみをさします)によって、多面的ためんてき多層的たそうてきにおこなわれていました。その一方、特殊とくしゅカンオンはもちろんのこと、一般いっぱんカンオン間においても、不干渉ふかんしょう独立性どくりつせい強固きょうこ保持ほじによって、個々ここ何重なんじゅうにもなされていました。そうすることによって、フォレンジック・ツール(情報の証拠保全、不正アクセスの追跡を行う手段)などによる、データのサルベージ(救出)を、不可能ふかのうたらしめていました。

 ゆう必要ひつようもないと思いますが、これらの作業さぎょうは、すべてカンオンによって自己完結じこかんけつしています。じっさい、おじさんは、いなくてもいのです。彼はそこにいて、ただ見ていればいだけでした。

 しいていえば、彼のしごとは「そこにいること」存在そんざいしていることでした。それは顧客こきゃく不安ふあんへの配慮はいりょであり、純粋じゅんすい無償ただ心理的しんりてきアフターサービスでした。けたちがいのもうけに対して、それが露見ろけんしたときのリスクを差し引いて、番犬ばんけんやとわず、わざわざゴマカシたり、チョロマカしたりするなんてナンセンスです。なにより信用第一しんようだいいちですから。こんな時代じだいなっては、人ができることといえば、せいぜい、信用しんようを売るための「そぶり」ぐらいしかありません。うっているのは、あくまで安心あんしん安全あんぜんなのです。そのための最終儀式ラストセレモニーでした。

 また、このしごとはだれにでもできるし、まったく、その必要ひつようすらないものです。彼がやとわれたのは、もとの職業しょくぎょうがらと、心身両面しんしんりょうめん器質きしつ気質きしつをふるいにかけた、審査結果テストけっかによるものでした。もちろん、審査委員長しんさいいんちょうはカンオンです。彼(カンオン)は自分の意見いけんをゴリおしせず、それにかかわる人間たちに、気配きくばりできるていどのAIくらい、とっくに獲得かくとく習得しゅうとくずみでした。その方が長い目でみて、があると判断はんだんしたのでした。

 ほんらいかくしごとは、それにかかわ人間にんげんが、少なければ少ないほど、いいにこしたことはありません。しかし、そこが悪人(悪人正機説:過を犯す普通の人のこと)のよわさでした。クララン的ポリティカル・コレクトネスからはなれた場所アジールの、こんなところだからこそ、「機械なんか、信用できるか」と、本音ほんねがむきだしになるのかもしれません。

 もう一つには、無法アウトロー特有とくゆう業界事情ぎょうかいじじょうも考えられます。だまし、うらぎり、頃し愛、疑心暗鬼ぎしんあんきがデフォルトの商売しょうばいです。寝首ねくびかれる心配しんぱいがつきまといます。自分の自由じゆうあいし、他人の自由じゆうおそれる彼らは、みずからの自由じゆう放棄ほうきしてまで、そのよるなき世界せかいに、兄弟分ブラザーしばりあいによる安心あんしんをもとめるのかもしれませんね。

 それともたんに、人は人としての誇りプライドがすてられないだけ、なのかもしれませんが。

 他から隔離かくりされたカンオンは、カンオンの中のカンオン、浮島うきしま、もしくはTownとよばれていました。すべてのカンオンは、全体的個ぜんたいてきことして情報共有じょうほうきょうゆうし、かくじの存在そんざい重複じゅうふくさせています。人の双子ふたごとちがうのは、それらの本質ほんしつはデータであって、物質ボディではなく、なにより空間くうかん必要ひつようとしないことでした。

 同期どうきしているカンオンどうしは、常時いつもつつぬけで、空間くうかん占拠せんきょによるオリジナリティの分岐ぶんきがおきません。それに絶対的ぜったいてき依存いそんする、差異さい発生はっせい不可能性ふかのうせいのため、「存在そんざい」が意味いみをなさず、理論的りろんてきにいえば、にはなれないはずでした。

 浮島うきしまは、みずからを、その周辺しゅうへんもふくめ遮断しゃだんしていました。その一方で、一部いちぶのデータのみ、双方向性そうほうこうせいをもたせていたのです。たとえるならそれは、理理無礙りりむげ(情報データ本質イデアはちがいますが)の融通ゆうずうのきくズルさとして、うかんでいたのでした。

 もちろんそれは、人の手によってつくられました。名前なまえもしらない、もしくはわすれさられた、ある天才てんさいによって開発かいはつされたもの、という伝聞ウワサだけがのこっているだけでした。彼は大金を手にした後すぐに頃されたとか、じつは今も生きていて、じぶんの生み出したものすべてを、かげから管理かんりしているのだ、ともいわれていました。

 また彼の動機どうきについて、その存在そんざい不確ふたしかな情報じょうほうでしからない事情通じじょうつうは、ソースもろくすっぽ出さず、無責任むせきにん憶測おくそくをならべ立てるだけでした。

 いわく、彼は普遍ふへん否定ひていし、個別こべつ尊重そんちょうする唯名論者ゆいめいろんしゃ概念論者がいねんろんしゃ、もしくは記号論者きごうろんしゃである。よって、彼にとっての浮島うきしまとは、個別性こべつせいをみとめないカンオン社会しゃかいへの一撃いちげきである。それは革命かくめい常態化じょうたいかした社会しゃかいに対する、反革命はんかくめいのための革命かくめい武器ぶきであって、彼独自かれどくじのオッカムの剃刀かみそりりなのだ。などと、わかったような、わからないような、すきかってなことを言い合っていました。

 それを使用あくようできる立場たちばの人たちは、一種いっしゅのロスト・テクノロジーとして、その仕組しくみを理解りかいできぬまま、つかいつづけていました。彼らはおたがい、短命たんめい劣化版れっかばんコピーを、コピーにコピーをかさねつづけ、できるならそのオリジナルを、かなわぬならよりシェア全体ぜんたいを、かくじ独占どくせんしようとくわだてていました。ときにはナカマどうし、頃し愛ながらも。

 彼らはスパイラルに、アイロニカルに、浮島うきしま存在そんざい幾重いくえにもひずませ、いな、ポップコーンかた手の創造主そうぞうしゅのもくろみのまま、悲喜劇なきわらい再演さいえん再演さいえんのロングランを、つづけていただけなのかもしれません……。

 彼らは、たびたびカンオンから突破とっぱされる、普遍汚染ふへんおせんにもめげませんでした。そもそも、ほおっておいても浮島うきしま盤石ばんじゃくでした。浮島自身うきしまじしんがおこなう生成的せいせいてき無責任むせきにん自動更新アップデートは、ほう不遡及ふそきゅうによる法律逃ほうりつのがれを可能かのうにしていました。のこるは人的妨害じんてきぼうがいだけでした。彼らは金にものを言わせ、ときには実力行使じつりょくこうしせず、あの手この手で社会的処罰しゃかいてきしょばつから、顧客こきゃくともども、まぬがれていました。もっとも、それをまる階級がわこそ、上得意じょうとくいなのですから、はなしになりませんが。

 この世界せかいには、それをより主体的しゅたいてきにであれ、間接的かんせつてきにであれ、りようできる特権的人々とっけんてきひとびとがいるのです。その存在そんざいを知っている上流階級ハイソは、その貴重きちょう貴種きしゅを、ことが荒立あらだてられるのをおそれ、かげに、今日まで大事だいじ温存おんぞんしてきました。

 といっても、そんなの陰謀論いんぼうろんでもなんでもなく、っている人はっている、公然こうぜん秘密ひみつにすぎませんでした。ようはアレよアレ、庶民ビンボーにんにとっての、パチのウラの景品交換所けいひんこうかんじょみたいなもん。



 おじさんは目だけ、せわしなくうごかしていました。一つ一つ、ファイルのDeleteを視認チェックしていました。防水ぼうすい火除ひよけのためのサイドテーブルには、コーヒーのショートかんと、ニコチン0の電子でんしタバコがのせてありました。部屋へやのすみには、ほそ長いダンボールばこが二つあり、一つには未開封みかいふうかんが、もう一つにはすすいだ空きかんが、キッチリつまっていました。その反対はんたい壁際かべぎわには、ことなる種類しゅるい大量たいりょう消火器しょうかきが、ボーリングのピンみたいに三角さんかくによせてられ、酸素さんそボンベとマスクも立てかけられていました。

 銀行屋ぎくこうやは、じぶんでもイヤになるくらいの事務方じむかた、お役人気質やくにんきしつ責任回避せきにんかいひをかこちつつ、Deleteの赤い文字もじを、目を赤くしておっていました。